学生時代に許されないカンニングが社会人になっていきなり奨励される社会
ご無沙汰しているブログです。
毎日1ブログと意気込んでいたわりには、少しお休みをいただいておりました。これからは本腰いれて書いていきたいと思います。
イヴァン・イリイチの「脱学校論」というキーワードをある記事で見つけたのですが、ちょっとつれづれっと書いておこうと思います。
脱学校論とは
イヴァン・イリイチ氏は2002年に亡くなった哲学者ですが、僕が注目した「脱学校論」というのは、wikipediaによると、
脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチの造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。つまり、教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びすなわち独学を取り戻すことである。
ということらしいです。
これって最近の僕のキーワードでもあるのですが、今の世の中、個人の主体性を前提としたサービスがめちゃくちゃあるじゃないですか。書店に行けば本はたくさんあるわ、Google先生に聞けばほとんどの情報が入ってくる、その他、スクーさんとか、学びの場って「主体性がある前提でいけば」たくさんあると思うんですね。
教師は制度の体現者であるということ
イリイチ氏はこの概念の説明の中で、教師を「制度の体現者」であるとしています。それは、国が必要だと感じた枠組みにはめ込む、そういったシステムです。そこに従順に適応すれば優秀者、そこから逸脱すれば厄介者、あるいは不良生徒とみなされます。
僕は社会人になってこの方ずっと教育関連に業界に属している訳なんですが、教師にならなかったのは、正解だったと思います(笑)。やりたい放題で、自由奔放な自分にはじっとしていられなかったでしょう。
学校生活と社会人生活は整合性が取れているか
組織の人財戦略は基本的には経営戦略と整合性を取られていなければいけませんし、人財戦略と個々の教育は整合性がはかられていなければ意味がありません。
では、日本の国家人財戦略の是非は置いておいたとして、学校で教わることと、組織から教わることの整合性は取れているでしょうか。
答えは「否」です。
例えば、カンニング。これやっちゃうと学校では叱られます。最悪の場合には0点にされちゃいます。でも翻って、社会人になると先輩のマネをしなさい、やっていうことをカンニングされなさいなんて言われたりします。
またまた社会人で業績優秀者なんかは、その秘訣をみんなに教えてあげなさい、情報共有してあげなさい、なんて言われちゃったりするわけです。学生からするとなんでやねん!って感じですね(笑)
少なくとも整合性に取れた教育システムを!
というわけで、全然整合性の取れていない教育システムな訳なんですが、これは早急に見直されるべき課題だと思います。今の学校教育システムは基本的に工業化社会において、平均的にそこそこ優秀人材を生み出すためのものでした。物質社会が成熟しきった日本や我々を取り巻くグローバル経済ではよりいっそうイノベーションやコラボレーション、主体性を主軸とした教育システムに切り替えるべきだと思います。
今の世の中、何かを暗記している、ってことは価値にはなりませんもんね。だからこそ、最近のMOOCの無償化はそれを体現していると思います。
いかがだったでしょうか。
今後は頑張っていきまーす。